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悪趣

提供: 新纂浄土宗大辞典

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あくしゅ/悪趣

輪廻における悪しき境界。ⓈdurgatiⓅduggatiⓉngan ’gro。悪道や悪処ともいわれる。悪趣は、たとえば『無量寿経』に「ただ衆悪を作して、善本を修せず。皆悉く自然に、諸もろの悪趣に入る」(聖典一・二七五~六/浄全一・三一)とあるように、悪い行いをした者が趣く所である。これには三悪趣四悪趣五悪趣の種類がある。①三悪趣は、地獄餓鬼畜生の三つの趣のことで、「さんなくしゅ」とも発音する。三塗あるいは三途ともいう。地獄餓鬼畜生の三つの境界は、多くの仏典において悪趣と名づけられている。②四悪趣は、三悪趣阿修羅を加えたもので、大乗の経論を中心に説かれる。ただし阿修羅は善趣とされることもあり、経論によって理解に相異のあることがうかがわれる。③五悪趣は『無量寿経』に「おう五悪趣り、悪趣自然に閉じ」(聖典一・二六〇/浄全一・二四)とあることによる。『安楽集』はこれについて「娑婆の五道をひとし悪趣と名づく。地獄餓鬼畜生は純悪の帰するところ名づけて悪趣となす。娑婆の人、天は雑業の向かうところ、亦、悪趣と名づく」(浄全一・七〇四上正蔵四七・一八下)と説明し、輪廻そのものを悪と見て、輪廻の境界である地獄餓鬼畜生・人・天のすべてを悪しき境界とする。他方、極楽には三悪趣が存在せず、また命尽きた後に三悪趣に生まれることもないという。これは阿弥陀仏本願、すなわち第一無三悪趣願と第二不更悪趣ふきょうあくしゅ願によるものである。念仏者の目指すところは、このような阿弥陀仏国土への往生であり、その志を持って念仏を称えることが肝要である。すなわち法然が「今生の為に身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽の為に自身を貪求するは、往生助業となるなり」(聖典六・七〇五/昭法全四六三)と述べるように、ただ生活を営むだけでは三悪道に落ちる行為となっても、往生を目指し念仏を称える者には、それが往生のための助けとなりえるのである。


【参照項目】➡横截五悪趣無三悪趣願不更悪趣願


【執筆者:石田一裕】