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性心

提供: 新纂浄土宗大辞典

しょうしん/性心

—正応五年(一二九二、永仁七年〔一二九九〕との説もあり)二月七日。唱阿(性阿)と号し、水沼上人、秩父上人とも呼ばれる。「性真」と書かれているものもある。良忠門下であり、性心の一門を生地にちなんで藤田派水沼義という。武蔵国藤田郡(埼玉県)の領主民部丞利貞の子とされ、比叡山において出家修学した。良忠が関東に下向した康元元年(一二五六)頃には師事していたとみられる。性心弟子である良心の『授手印決答受決鈔』には同二年『疑問抄』を筆録し、良忠の下総における『観経疏』講義に際しても休むことなく、筆録役を担っていたことが伝えられている。また良忠の鎌倉移住に際しても理真・明阿らとともに随従しており、これらの点から性心良忠門弟のなかでも上足であったとみられる。建治二年(一二七六)には良忠より『授手印』を授けられたとされるが現存はしていない。良忠滅後は郷里に戻り、正応元年(一二八八)下総国猿島郡岩井(茨城県坂東市)に高声寺を創建し、布教に努めた。性心藤田派の祖とされるが、実際に藤田派を弘めたのは弟子持阿良心といわれる。永仁元年(一二九三)一〇月九日、性心は『疑問抄』とともに自身の著作である『授手印決答見聞』を良心に授与している。性心には同書のほか若干の著作があったと伝えられるが現存していない。同書奥書には「先師の御本世に多く流布する所、皆、此の本を写す。故に此の本、是れ最初の本なり」(浄全一〇・八六下)とあり、自身が所持している『疑問抄』が現在流布しているものの原本であることを主張しており、自分が良忠の正統を継ぐ者であるという自覚があったとみられる。


【資料】良心『授手印決答受決鈔』(浄全一〇)、同『伝通記受決鈔』(大正大学蔵)、『総系譜』『飯沼弘経寺志』(共に浄全一九)


【参考】大島泰信『浄土宗史』(浄全二〇)、玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)


【参照項目】➡藤田派良心


【執筆者:沼倉雄人】