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忍澂

提供: 新纂浄土宗大辞典

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にんちょう/忍澂

正保二年(一六四五)一月八日—正徳元年(一七一一)一一月一〇日。升蓮社宣誉信阿。また白蓮社とも。法然教化活動の拠点の一つとした京都鹿ししたにに、知恩院を退院した万無まんむを中興開山として、善気山法然院万無教寺を再興し、自らを中興二世とした。廬山慧遠白蓮社の風を慕い再建されたことから、法然院白蓮社ともいう。忍澂の墓石には白蓮社主の文字が刻まれている。専修念仏の実践とともに、宗典の基盤研究と寺院再興による宗風宣揚に尽力し、先取的な業績を残した。武蔵国の生まれ。早く父母を失い、九歳で出家を志し、直伝の下に修学する。のち万無を師とする。師命により増上寺林冏りんげいのもとで修学し、幡随院において知闡ちせんより宗戒の両脈を承ける。寛文七年(一六六七)香衣綸旨りんじを賜る。江ノ島の弁才天、近江浄信寺の地蔵尊、竹生島の弁才天等に参籠し、弘法を祈願する。同九年、神道の奥義を承ける。再建した堺の法行寺で、善導大師一千年遠忌に『光明大師別伝纂註』を執筆する。延宝八年(一六八〇)万無の命を承けて、幕府より地を得て法然院の再建を始める。元禄元年(一六八八)、施主を募り、寺観を再建し、その名を本尊台座に納める。同二年、弁才天等を安置し護寺の神とする。同三年、地蔵菩薩鋳像を開眼する。同六年影臨庵に退く。黄檗第四代独湛禅師と道交し、『勧修作福念仏図説』を印施し、『陰隲録いんしつろく』と『自知録』を出版し、功過格思想を広める。同一六年、桂昌院の尽力により影臨庵を官寺とする。宝永三年(一七〇六)、建仁寺蔵『高麗版大蔵経』と『黄檗版大蔵経』との対校を始める。同七年、功なり、さらに対校録一〇〇巻を出版しようと願うが病を発し、翌年一一月一〇日に遷化する。帰依した者には、近衛基熙もとひろ、尾張徳川光友、一条輝子、林丘寺晋明院照山元瑶等が著名。校訂出版には良忠著『浄土三心私記裒益ぼうやく』、善導集記『観経疏』、良忠著『決疑鈔』他があり、述作には『吉水遺誓諺論』『勅修御伝縁起』『同目録』『別時念仏三昧法諺註』他がある。伝記には『獅谷白蓮社忍澂和尚行業記』があり、臨終に関しては『獅子谷忍澂和尚鶴林記 附勝瑞記』『宣誉上人臨末記』等がある。


【参考】松永知海「忍澂上人の蓮社号について」(『仏教論叢』四九、二〇〇五)


【参照項目】➡法然院


【執筆者:松永知海】