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広隆寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こうりゅうじ/広隆寺

岩手県花巻市四日町。藤興山長寿院。岩手教区№二〇。前身は、法然弟子で奥州に浄土教を広めた金光が開いた念仏道場という。開山は大沢円通寺良栄理本の孫弟子良誾りょうぎん開基鳥谷とやさき城主稗貫ひえぬき氏。道場布教していた良誾に城主忠広・弟広隆が帰依。明徳年間(一三九〇—一三九四)広隆が死去し、その菩提を弔うため一寺を建立し広隆寺と号したと伝える。寺宝に阿波之介所持と伝える唐画十王図などがある。


【参考】阿川文正監修『金光上人関係伝承資料集』(金光上人関係伝承資料集刊行会、一九九九)


【参照項目】➡金光


【執筆者:中野真理子】


京都市右京区太秦うずまさ蜂岡町。蜂岡山、秦公はたのきみ寺、桂林寺、香楓寺、蜂岡寺、葛野かどの寺、三槻寺、また太秦の太子堂などとも称される。真言宗御室おむろ派。帰化人系豪族秦河勝はたのかわかつ聖徳太子から授けられた仏像を祀るために建立したとされ、推古天皇一一年(六〇三)建立説(『日本書紀』)と同三〇年建立説(「広隆寺縁起」)の二説あるが、推古天皇二四年(六一六)には新羅から貢上された金銅仏が「蜂岡寺」に安置されたとの記録も見られる(『扶桑略記』)。当初は弥勒菩薩本尊としたと伝えるが、古代・中世を通じては薬師信仰・聖徳太子信仰霊場として知られ、現在は聖徳太子像を本尊とする。創建時の寺域は九条河原里から九条荒見社にまたがる地域であったが、のち狭隘きょうあいを理由に現在の所在地に相当する五条荒蒔あらまき里に移転した(「広隆寺縁起」)。嘉禄三年(一二二七)法然の遺骸を納めた石棺が延暦寺僧徒による破却の危機によって大谷の墳墓から広隆寺来迎房へと移された。翌二年に粟生あお念仏三昧院(光明寺)において供養されるまで法然弟子であった円空により石棺は守護された。飛鳥時代作成の二体の弥勒菩薩半跏像(ともに国宝)をはじめ、数多くの宝物を所有する。


【資料】「広隆寺縁起」(『朝野群載』所収)、「広隆寺来由記」


【参照項目】➡円空


【執筆者:冨樫進】