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幸西

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こうさい/幸西

長寛元年(一一六三)—宝治元年(一二四七)四月一四日。房号は成覚房、阿波聖人とも。法然弟子一念義を主張。もと天台僧で鐘下房の少輔と呼ばれたが比叡山での活動は不明。『四十八巻伝』二九に「比叡山西塔の南谷に、鐘下房の少輔とて、聡敏の住侶在りけり、弟子の児に遅れて、眼前の無常に驚き、交衆ものうく覚えければ、三十六の歳遁世して、上人弟子となり、成覚房幸西と号しける」(聖典六・四五三)とあるのがわずかな手がかりで、西塔南谷の住侶であったが建久九年(一一九八)三六歳で法然弟子となったらしい。法然のもとで浄土宗を学び、『選択集』を所持したことも『醍醐本』から判明する。元久・建永ごろから頭角をあらわし、元久元年(一二〇四)『七箇条制誡』では一五番目に署名。同三年興福寺は朝廷に専修念仏停止ちょうじを訴え、法然幸西行空らの罪科を迫る。建永二年(一二〇七)朝廷は弾圧を決定して建永の法難がおこり、『古徳伝』七によると幸西は物部の俗称で阿波へ流罪となる。ただし『歎異抄奥書慈円幸西証空の身柄を預かったという。証空慈円との関係が深いが、幸西とは繫がりを示す史料がなく明らかでない。後の嘉禄の法難(一二二七)で山門比叡山)は専修念仏の張本人として隆寛幸西・空阿の三名を朝廷に訴え、幸西は壱岐へ配流(薩摩とも)となる。配流地へ赴いたかは不明で讃岐大手島にいたとの情報もあり、山門は朝廷へ検知するよう訴えている。二度の法難で弾圧されたように浄土宗の中では急進的な位置にいた。その思想は一念義と呼ばれ、念仏行よりも信心を本質的な正因と見なすところに特徴がある。思想活動は活発で著作も多かったが散逸し、鎌倉後期の凝然源流章』に『一渧記』『略料簡』『称仏記』が引用される。残存するのは建保二年(一二一四)以前撰述の『京師善導和尚類聚伝』一巻と同六年の『玄義分抄』一巻の二部。とくに後者は幸西思想を解明する重要な著作で、凡頓一乗真宗の立場から本願・仏智への信心のみによって往生可能とし、聖道門や諸行往生方便説とする独自の仏教観がうかがえる。従来、幸西は天台教学・天台本覚思想の影響を受けたと指摘されるが見直さねばならない。


【資料】『法水分流記』『三長記』『百練抄』『民経記』、日蓮『念仏者追放宣状事』、『最須敬重絵詞』五


【参考】安井広度『法然門下の教学』(法蔵館、一九六八)、石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』(大東出版社、一九七九)、伊藤唯眞「一念派の行動と思想」(『浄土宗史の研究』伊藤唯眞著作集Ⅳ、法蔵館、一九九六)、平雅行『日本中世の社会と仏教』(塙書房、一九九二)、善裕昭「幸西の一念義(一)」(『佛教大学大学院紀要』一八、一九九〇)、同「同(二)」(『浄土宗学研究』一八、一九九二)


【参照項目】➡一念義


【執筆者:善裕昭】