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大原問答

提供: 新纂浄土宗大辞典

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おおはらもんどう/大原問答

文治二年(一一八六)法然比叡山麓の大原で天台僧顕真らと行った問答大原談義とも。顕真は梶井門主明雲に師事し天台顕教を中心に活躍したが、承安三年(一一七三)四三歳のとき大原に籠居した。『醍醐本』『四十八巻伝』一四などによると、両人はまず西坂本で対面し、顕真生死から離れる方法を問いかけ、法然願力による凡夫往生を提示した。別れてのち顕真法然に偏執の失があることを指摘し、そのことを伝え聞いた法然は不勉強故に疑心を懐いたのだと斥けている。これを聞いた顕真は反省して浄土教典籍を学習し、文治二年再び法然大原へ招いて討論した。この二度目の対談がいわゆる大原問答である。顕真側には大原遁世僧らが並び、法然側には弟子を率いて参加した俊乗房重源が並んだ。顕真はようやく納得がゆき、大原に五つの房舎を建て一向専念念仏を定置することを誓った。また重源阿号を発案したという。大原問答は宗外史料で裏付けられないが、成立の早い『醍醐本』や『四巻伝』はじめほとんどの伝記が取り上げる。『醍醐本』には、浄土宗のことを大原で談論したとき、法門比べでは互角であったが機根比べでは勝利したという法然の回顧談を載せ、直弟の聖光念仏往生修行門』にも大原で討論があったことを述べる。ただし伝記によっては参加者が付加されている。『四巻伝』『私日記』には明遍貞慶智海証真ら当代の代表的学匠が参加したというが、顕密世界で活躍した最中に遁世門の討論に参加するとは考えにくい。このように後世の付加や説話化が認められるが、法然顕真および大原の僧らは認めてよく、重源参加も否定はできない。また大原での開催場所に、竜禅院(竜禅寺)と勝林院の二説がある。いずれか断定はできないが、顕真の住房である竜禅院の可能性が高いであろう。大原問答は、法然が自己の立場を対外的人物に表明した早い時期にあたり思想形成の上で注目される。また文治五年(一一八九)から九条兼実との交流がはじまり、法然の名が知られる契機ともなった。なお、顕真大原籠居は一七年に及ぶが、問答以後の建久元年(一一九〇)天台座主となり顕密の活動を再開、同三年在任中に没した。


【参考】梶村昇「大原談義について」(『浄土宗学研究』一三、一九八一)、善裕昭「天台僧顕真と大原談義」(『佛教大学総合研究所紀要』一三、二〇〇六)


【参照項目】➡顕真


【執筆者:善裕昭】