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善導寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ぜんどうじ/善導寺

福岡県久留米市善導寺町飯田。井上山光明院浄土宗大本山浄土宗二祖聖光開基。開創年時は不詳だが、『聖光上人伝』には、元久元年(一二〇四)に聖光法然のもとから九州に帰郷し、厨寺くりやでら一千日念仏を修したあとに記載されているので、この時期の建立と考えられる。開山の由緒について、天明四年(一七八三)成立の『鎮西国師絵詞伝』には、建久二年(一一九一)に聖光がこの地を通りかかると、紫の光が差し込み、光の中に大伽藍を現じたことを目の当たりにし、この地に当寺を建立することにしたと伝えている。『聖光上人伝』には「地主要阿数地を寄進して四九の本房を置く。彼の妻作阿水田を施入して衆僧の糧を擬す。夫婦同心、寄進文を洪鐘の腹に銘ず」(浄全一七・三八九下~九〇上)とあることから、善導寺は地主要阿の寄進によって建立され、またその妻作阿による田畑の寄進によってその後の僧の生活が支えられていたことがわかる。また、四九の房(後の記録では三六房とも)があり、林の如く僧が集まり、例時法要が絶え間なく勤められたという。しかし、『四十八巻伝』には建立が『授手印』撰述の後と記されているなど、諸説がある。地主要阿については、善導寺所蔵『鎮西歴代誌』には、「当寺開基檀那建久六卯天草野太郎永平公永阿弥陀仏」とあることから、開基の大檀那は天草野太郎永平であり、『聖光上人伝』にある「要阿」はこの永平とする説が主流で、「要阿」は「永阿」の誤写ではないかという説もある。聖光に続く住職は、『鎮西本山歴代誌』および大正三年(一九一四)の善導寺編『筑後善導寺志』(浄全二〇・四三七上)によると、聖光が住して以降、弟子の敬蓮社入阿聖光の留守を守り、然阿良忠が二世として住持、続いてその弟子である了慧道光三世として住した。その後の変革について、同じく『筑後善導寺志』によると、弘安(一二七八—一二八八)の頃は興隆を見たが、その後戦火などによって幾度も堂宇が焼け、その都度再建が行われたという。また、天正一二年(一五八四)には多くの僧が殺害された「天正の法難」と呼ばれる事件がおきた。これは、善導寺檀那草野氏は大友氏の配下にあったが、大友氏の勢力の衰えから佐賀の龍造寺氏の配下へと鞍替えしたため、憤慨した大友氏配下の筑前立花城主・戸次べっき道雪が善導寺より四キロほど離れた放光寺に当時の善導寺住職祖吟をはじめ上座の一二人と塔頭たっちゅう三六人を招き、殺害したという事件である。現在放光寺跡には供養塔が安置され、追善法要が勤められている。近代以降には、大正九年(一九二〇)三月、鎌倉光明寺と共に別格本山昇格を請願、昭和二七年(一九五二)、大本山に昇格が決定、翌二八年、大本山昇格報告法要が行われている。平成一五年(二〇〇三)より二四年にかけては第二次平成大修築が行われ江戸中期の姿に復元され、同二五年には法然上人八〇〇年大遠忌と併せて落慶法要が勤められた。当寺は聖光荼毘に付した場所として伝わり、聖光の廟がある。廟堂は安政元年(一八五四)の建築で、廟塔の建立年時は不詳だが、鎌倉期の工法が見られる。現在の本堂は天明六年(一七八六)、四八世三誉愍海の時代の建築で、国重要文化財。当寺には最古の法然上人絵伝との説がある『四巻伝』(宗宝・県有形文化財)、聖光直筆とされる聖護伝承『授手印』(宗宝・市有形文化財)、鎌倉時代の作とされる木造鎮西上人坐像・木造善導大師坐像(県有形文化財)などが所蔵されている。


【資料】『聖光上人伝』『然阿良忠上人伝』(共に浄全一七)、『筑後善導寺志』(浄全二〇)、『鎮西国師絵詞伝』(版本)、『浄土宗大年表』(修訂版、山喜房仏書林、一九九四)


【参考】梶村昇・福𠩤隆善『弁長 隆寛』(『浄土仏教の思想』一〇、講談社、一九九二)、梶村昇『聖光と良忠—浄土宗三代の物語』(浄土宗、二〇〇八)【図版】巻末付録


【参照項目】➡聖光


【執筆者:郡嶋昭示】


福島県郡山市清水台。光明山悟真院。福島教区№七一。天正七年(一五七九)、法蓮社良吸(岌)善竜の開山名越派大沢円通寺末。江戸時代には参勤交代の折りに、大名たちは当寺門前の祐天名号の前では下馬する慣例となっていたという。度重なる火災にあっており、現在の本堂庫裡は大正二年(一九一三)に再建されたものであるが、共に国登録有形文化財となっている。


【資料】『貞一聞書』(『郡山地方史研究』三八)


【参考】郡山市『郡山市史』第二巻近世(上)(郡山市史編さん委員会、一九七二)


【執筆者:𠮷水成正】


群馬県館林市楠町。終南山見生院。群馬教区№六七。関東十八檀林の一。寺伝によれば、和銅元年(七〇八)行基が東国遊化のとき、館林の郊外に一庵を結んだという。建久四年(一一九三)歌僧頓阿行基の跡を慕って草庵を作り、建治二年(一二七六)良暁が再建して二世となり、白旗派の念仏道場とした。その後、岩松・由良・長尾・赤井・北条氏など領主の帰依を受け、法問や論議を続けていたが、戦国時代に焼失。天正一八年(一五九〇)城主榊原康政の帰依をえて幡随意が寺を再建した。慶長元年(一五九六)には徳川家康から一〇〇石の朱印地をもらい、幡随意の活躍により所化が集まり、檀林寺院に発展した。明治二年(一八六九)には勅願所となった。その後市街地の再整備により現在地に移転した。善導寺の前半史は不明であり、実質的には幡随意開山した寺であろう。


【資料】『館林善導寺志』(浄全二〇)


【参考】宇高良哲『浄土宗檀林古文書選』(東洋文化出版、一九八二)【図版】巻末付録


【参照項目】➡関東十八檀林幡随意


【執筆者:宇高良哲】


埼玉県大里郡寄居町末野。白狐山悟真院。埼玉教区№一三一。開創は永仁五年(一二九七)、開山藤田派の第三祖持阿良心開基檀那・藤田左衛門尉照久、中興一七代藤田右衛門尉重経(法号・天窓院殿夕誉性也居士)。当地は藤田派の発祥地であり、当寺は武蔵国における藤田派の流義弘通の中心寺院であった。中世の武蔵七党猪俣党の支流である藤田氏の菩提寺。正中元年(一三二四)一二月二〇日に堂宇焼失、元徳の頃(一三二九—一三三一)法誉廓玄が再建した。


【参考】『浄土宗埼玉教区寺院名鑑』(一九九二)、良心『伝通記受決鈔』序


【参照項目】➡藤田派


【執筆者:稲岡正順】


新潟市中央区西堀通四番町。真光山光明院。新潟教区№四一。元知恩院末。開山岌讃ぎゅうさんは和泉国の出身、知恩院二〇世空禅を師とし、相模国光明寺に遊学して宗脈を継ぎ、天文三年(一五三四)後奈良天皇に召され『観経』仏身観の宗要を説いて叡感深く、真光山の勅額、殺生禁断の宸筆、さらに青蓮院尊鎮法親王自筆光明遍照と讃した幅物、源信筆の山越の弥陀絵像を賜り、これを奉持して越後へ下ったという。当初は新津善道(秋葉区善道町のあたり)にあったが、のち新潟町が整備されるに及び現在地に移った。また元禄時代(一六八八—一七〇四)芭蕉が北陸回遊のおり立ち寄ったという蓑塚がある。


【資料】『蓮門精舎旧詞』(続浄一八)


【参考】『新潟県寺院名鑑』(新潟県寺院名鑑刊行会、一九八三)、『新潟市文化財調査報告書 寺院Ⅳ』(新潟市教育委員会、二〇〇三)


【執筆者:中山祐昌】


愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷弐区。海鐘山悟真院。尾張教区№八三。後に大本山増上寺三世となった音誉聖観によって嘉吉三年(一四四三)に開創。緒川城主水野忠政の息女で徳川家康を生んだ於大の方がしばしば参詣したことから遺品として「夜着」が残る。本尊阿弥陀如来像は尾張徳川家第三代綱誠の側室和泉の方の志で再興されたもの。現本堂は寛延二年(一七四九)に再興。画僧月僊げっせんの襖絵や播隆徳本徳住名号等がある。


【資料】『海鐘山悟真院善導寺縁起』、『蓮門精舎旧詞』一六


【執筆者:大田明光】


三重県亀山市西町。修南山光明院。伊勢教区№四八。伊勢国鈴鹿郡八十八箇所第三三番。触頭ふれがしらであった。円誉心愚によって中興。


【資料】『蓮門精舎旧詞』一四(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)


【執筆者:横井大覚】


福井県大野市錦町。光明山悟真院。福井教区№二〇。藩主土井氏の菩提所。永禄元年(一五五八)に筑後善導寺より布教のため当地を訪れていた大誉鏡山が建立した。はじめは大野の南、野口にあったが、慶長六年(一六〇一)大野城主土屋正明帰依を受け現在地に移り、一宇が建立された。寛永年間(一六二四—一六四四)に、松平直政の帰依を受け、天和二年(一六八二)、松平氏に代わって藩主となった土井利房も帰依し、以後、歴代藩主の菩提寺となった。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二八


【参考】下中邦彦編『福井県の地名』(『日本歴史地名大系』一八、平凡社、一九八一)


【執筆者:工藤美和子】


京都市中京区二条通木屋町東入東生洲町。終南山光明院。京都教区№一八。永禄一〇年(一五六七)に筑後善導寺の僧である然誉清善が法雲寺と共に開創した。はじめ六角堂の辺にあったが、元和四年(一六一八)の六角堂回禄に際して、長谷川重兵衛の寄進地(現在地)に移動した。そのとき、四世旭誉が本尊の霊夢を感得し、類焼を避けた伝承が『浄家寺鑑』六にみえる。往時には塔頭たっちゅう三宇を有していた。なお什宝の仏牙舎利は宗外にも高名であり、隠元や独湛が賛を賦している。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『善導寺志稿』(『京都府寺誌稿』二四)


【執筆者:加藤弘孝】


一〇

大阪市北区与力町。終南山悟真光明院。大阪教区№一五四。養和元年(一一八一)八月、俊乗坊重源が摂津国渡辺道場として開基した。のち、文禄元年(一五九二)心蓮社伝誉が中興開山となっている。善光寺如来一光三尊)を本尊とし、天保八年(一八三七)類焼により焼失し、のち再建された。大坂三十三観音札所・第八番となっている。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)、『大阪府全志』二


【執筆者:藤野立徳】


一一

福岡市博多区中呉服町。光明山悟真院。福岡教区№一四八。聖光の遺跡寺院聖光英彦ひこ山麓で念仏行を修していたとき、霊夢によって、博多の津に流れ着いた善導像を発見し、この寺を開創して安置したという。この善導像は本邦最古と伝えられる。聖光はこの地に数ヶ月留まり説法をしたが、これが談義所濫觴らんしょうであったともいう。文明四年(一四七二)には勅旨を受けて後土御門天皇の勅願所となった。聖光直筆の一筆三礼阿弥陀経』が伝わり、円阿相伝聖光直筆『授手印』が現存する。


【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、『聖光上人伝』


【参考】藤本了泰「筑後善導寺史の一考察」(『浄土宗学大会紀要』知恩院、一九三七)、藤堂俊章『聖光上人』(善導寺、一九九二)


【執筆者:郡嶋昭示】