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名越派

提供: 新纂浄土宗大辞典

なごえは/名越派

三祖然阿良忠門下六派の一つ。派祖は良弁尊観名越流とも称される。また、尊観が相模国鎌倉名越善導寺布教したため善導寺義ともいう。陸奥国山崎専称寺(福島県いわき市)と下野国大沢円通寺(栃木県益子町)を中心に、北関東から東北地方一帯にかけて展開し、白旗派と対抗した鎮西義の一派。派祖尊観は幼少から良忠に師事したが、良忠の入寂後は一念業成を主張し、多念業成を主張する白旗派寂恵良暁と鋭く対立した。尊観門弟のうち、近江国河瀬報恩寺の良厳慈観は、『十六条事』で名越白旗両派の主張の会通を図ったが、信濃善光寺南大門の月形房談義所布教した良慶明心は、尊観口伝を伝え、主著『果分不可説』で尊観の主張を補い、さらに強固なものとした。明心の後継者となったのは良山妙観である。妙観明心に五年間師事し、磐城国矢ノ目(福島県いわき市)に松峯山如来寺を創建し、『開題考文抄』『果分考文抄助証』等の重要な著書を残し、名越派教義の基礎を確立した。妙観門弟は多数いたが、良天聖観は楢葉郡折木(福島県広野町)に知機山成徳寺を建立して子弟を養成し、自身も『選択口筆見聞』『先師良山口筆』等を著し、妙観の説を補完しさらに発展させていった。鏡円祐誠は如来寺二世となり、良就十声は山崎に梅福山専称寺を開き、互いに教線の拡張を図った。また、聖観弟子良栄理本は大沢に円通寺を創建して教化に務め、名越派教義を大成し、『伝通記見聞』『十六箇条疑問答見聞』『安楽集私記』等多数の著書を残した。理本の著書は「大沢見聞」と呼ばれ、名越派の重要書となり、彼の門流は大沢流と呼ばれた。このように名越派は、専称寺をはじめとする四箇寺が建立されたことにより、教義的にも経済的にも一応の完成を見た。そして、これら諸師の著述は月形函に秘蔵され、伝書として重視された。室町時代から戦国時代にかけては、名越派四箇本山が中心となって末寺の統括と子弟の養成を行った。その後、江戸時代になると、専称寺円通寺が、本山としてその中心的な役割を担う。各本山には衆頂・二臈・伴頭・月行事等の役職があり、山内を統括した。また所化が修学する場合は、二〇歳を上限として本山学寮に入り、寮主の指導のもとに修学した。その段階は、礼讃部から始まり、選択部・玄義部・文句部・論部・経部・無部と進級した。各部の修学年数は、礼讃部が二年、選択部から経部までは各三年、無部は制限がない。そして、宗脈伝授は一〇年目以降となっていた。こうした中、琉球に桂林寺を建立し、『琉球神道記』『琉球往来』等を著した良定袋中や、その門下の良間東暉とうき唯識をよくした良光聞証、『法然上人行状画図翼賛』の著者良照義山などの学僧を輩出した。近世の名越派寺院は四〇〇箇寺足らずながらも独自の伝法が認められていたが、増上寺役者から度々定め書が出されていることから、増上寺の支配下にあったことは明らかである。一念業成諸行心具不生説などの白旗派との教義的な論争は明治まで続き、独立の運動もあったが、行政上白旗派に統括され、浄土宗として統一された。大正一二年(一九二三)の伝宗伝戒が最後となった。


【資料】『専称寺文書』、『円通寺文書』、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】玉山成元「浄土宗名越派の確立について」(『藤原弘道先生古稀記念史学仏教学論集』同刊行会、一九七三)、宇高良哲「浄土宗名越派檀林の僧侶養成」(『水谷幸正先生古稀記念論文集仏教教化研究』思文閣、一九九八)、𠮷水成正「浄土宗名越派の入寺帳について—特に寮主の動向を中心として—」(『三康文化研究所年報』三七、二〇〇六)


【参照項目】➡良忠門下の六派尊観一念業成・多念業成


【執筆者:𠮷水成正】