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偏依善導

提供: 新纂浄土宗大辞典

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へんねぜんどう/偏依善導

浄土宗義の大綱をひとえ善導一師に依ること。『選択集』一六において法然は、①「善導和尚は偏に浄土を以て宗と為て、しかも聖道を以て宗と為ず」なので聖道門の諸師に依らず、②「善導和尚はこれ三昧発得の人なり。道においてすでにその証有り」なので迦才かざい慈愍等の浄土祖師に依らず、③「師(善導)に依って弟子懐感)に依らず。いわんや師資の釈その相違はなはだ多し」なので懐感に依らず、④「師(道綽)なりといえども、いまだ三昧を発さず」なので道綽に依らない、と四段階を通じて偏依善導一師の理由を明らかにしている。加えて法然は「大唐に相い伝えて云く、『善導はこれ弥陀化身なり』と。爾らば謂うべし。またこの文はこれ弥陀の直説なりと」(以上、聖典三・一八五~九〇、昭法全三四七~九)と述べ、善導弥陀化身、『観経疏』を弥陀直説と明言している。法然の思想史において、偏依善導弥陀化身善導が提唱されるのは『選択集』が初見であり、迦才慈愍はおろか、道綽懐感さえ退けて善導一師に偏依する理由は、善導が教示する世界観を拠り所としなければ凡入報土の構造を明らかにし得ないからであり、法然によるそうした主張の根拠が善導弥陀化身説の確信に他ならない。つまり、法然自身の信仰の中で弥陀化身善導が確立されているからこそ偏依善導が成立するのであり、両者の関係は仏説に裏付けられた念仏諸行の取捨という選択思想と軌を一にするものであると言い得よう。


【参考】藤堂恭俊「法然の偏依善導と八種選択義」(『法然上人研究』山喜房仏書林、一九八三)、林田康順「『選択集』における善導弥陀化身説の意義—選択と偏依—」(『仏教文化研究』四二・四三合併、一九九八)、同「『選択集』の構造—偏依善導一師—」(印仏研究五五—一、二〇〇六)


【参照項目】➡弥陀化身


【執筆者:林田康順】