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修験道

提供: 新纂浄土宗大辞典

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しゅげんどう/修験道

神霊や魑魅魍魎ちみもうりょうが住むとされる古来から怖れあがめられた山林に修行の場を求めて、山林から霊気をもらい、求める者に不思議な力である験力げんりきを用いて加持祈禱を営む一派。験力でもって加持祈禱に優れた者が修験者と呼ばれるようになっていったのが「修験」の名の起こりで、山野に起臥するから「山伏」ともいう。一般に開祖と目されたのは、葛城山かつらぎさん修行した役小角えんのおづぬであった。験力による呪術宗教的な活動を中核とし、すなわち、種々の呪術祈禱で病気を治し、悪事や災難を逃れさせる力をもつ者とされた。陰陽道おんみょうどう密教が結び付き、その密教を取り入れて形式を整えたのが修験道とされることから、修験道陰陽道とは共通の呪法が多い。また、修験道神道仏教道教陰陽道民間信仰との習合形態をとっていることから、修験道を研究すれば、日本古来の固有信仰仏教をはじめとする外来宗教の諸要素を発見することが可能であると見做されてきた。平安初期に比叡山天台宗を開いた最澄高野山真言宗を開いた空海らは、ともに山林を拠点にした山林修行者の流れをくむが、これは修験道密教と習合する背景ともなった。鎌倉期にはいると、葛城山・金峰山きんぷせん・大峰山・熊野三山・富士山・御嶽山・白山・立山・羽黒山・大山・英彦山ひこさんなどの霊場に集団を形成する。室町期には園城寺おんじょうじ末の聖護院を本寺とする天台修験の本山派と真言修験の三宝院流の当山派が成立する。この時期には、密教を中核とする教義が体系化され、修験道は最盛期を迎え、文学・芸能・美術の分野に多大の影響を与えた。江戸期に入ると山林修行は終止符をうって各地の町村に定着して現世利益の諸活動を行った。江戸中期を迎えると、富士講と木曽御嶽講が盛行し、前者からは丸山教・扶桑教・実行教、後者からは御嶽教などの教派神道が成立している。明治期には神仏分離政策のもと修験道は廃止されたが、修験者天台宗真言宗に所属し、戦後独立して活動している。


【参考】和歌森太郎『修験道史研究』(河出書房、一九四三/東洋文庫二一二、平凡社、一九七二)、宮地直一『熊野三山の史的研究』(国民信仰研究所、一九五四)、村山修一『山伏の歴史』(塙書房、一九七二)、五来重編『吉野・熊野信仰の研究』(『山岳宗教史研究叢書』四、名著出版、一九七五)、宮家準『修験道—山伏の歴史と思想』(教育社、一九七八)


【参照項目】➡陰陽道山岳信仰


【執筆者:藤井正雄】