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下炬 - 版の履歴
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2018-03-30T06:17:56Z
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Seishimaru
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2018年3月22日 (木) 11:20に192.168.11.48による
2018-03-22T11:20:11Z
<p></p>
<p><b>新規ページ</b></p><div>=あこ/下炬=<br />
[[引導]]をわたす儀式。[[下炬]]は秉炬(「へいこ」あるいは「ひんこ」)ともいい、下火とも書く。[[下炬]]とは『[[啓蒙随録]]』初篇に「正しく[[荼毘]]の火を加うるなり…吾が宗古来[[下炬]]に即して[[引導]]する式なるべし」(『明治[[仏教]]思想資料集成』二・二二五上)とあるように、遺体を焼く薪などに火を点ずることであった。後にはその[[作法]]を意味するようになり、さらに[[引導]]文を合わせたものをも意味することとなった。現在では[[葬儀式]]のときに[[導師]]が<ruby>[[炬火]]<rt>たいまつ</rt></ruby>を持って[[引導]]の句を授けることをいう。<br />
<br />
秉炬の用例は『仏本行集経』に「秉炬欲破[[世間]]昏」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V03.0788c.html 正蔵三・七八八下])とみられ、[[煩悩]]の闇と[[世間]]の闇を破る<ruby>喩<rt>たとい</rt></ruby>として用いられている。また、[[火葬]]における故事として、『大愛道[[般涅槃]]経』([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V02.0823a.html 正蔵二・八二三上])や『[[浄飯王]][[般涅槃]]経』([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V14.0782b.html 正蔵一四・七八二中])には[[釈尊]]の[[火葬]]を迦葉が燃やした<ruby>[[栴檀]]薪<rt>せんだんまき</rt></ruby>で行ったことがあげられる。それをうけ葬儀における用例では『禅苑[[清規]]』に「[[住持]]已下[[焼香]]略声[[法事]]。下火訖(当有[[法語]])」(続蔵六三・五四一中)と亡僧の葬儀に規定され、『[[大慧]]普覚[[禅師]][[語録]]』([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0862c.html 正蔵四七・八六二下])、『勅修百丈[[清規]]』([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V48.1128c.html 正蔵四八・一一二八下])や『法演[[禅師]][[語録]]』([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0653c.html 正蔵四七・六五三下])等にも多くの用例がある。また日本でも特に[[禅宗]]を中心にみることができる。たとえば大休宗休(一四六八—一五四九)の『見桃録』や『小叢林[[清規]]』などにみられる。[[浄土宗]]では証誉文龍(一六世紀中頃)の『[[無縁集]](徹心葬送[[次第]]集)』には「下火を偈誦し松明を彼所に投げ云々」とあるように下火=[[引導]]の意味で用いられ、『[[諸回向宝鑑]]』などでも同じようである。[[浄土宗]]での[[下炬]]を用いる意味合いは『[[無量寿経]]』下の「なおし火王のごとし。一切の[[煩悩]]の<ruby>薪<rt>たきぎ</rt></ruby>を焼滅するが故に」(聖典一・二五八~九/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0023 浄全一・二三])に基づいて理解されている。<br />
<br />
[[下炬]]のときに一句([[法語]])を述べる典拠は<ruby>黄檗希運<rt>おうばくきうん</rt></ruby>(—八五〇頃)の次のような故事に基づくとされている。希運は得悟するまで、情にひかれるのを避けるため、故郷の母に安否を知らせなかった。母はわが子希運の安否を何としても知りたい[[一心]]で、福清渡という河の渡しで<ruby>旅籠<rt>はたご</rt></ruby>を始め、旅人の足を洗うことにした。目の悪かった母は足を洗う時、希運の足にあった大きなこぶ(一説にはあざ)を手がかりに、わが子を見つけるつもりであった。百丈のもとで得悟した希運は故郷に至り、なつかしい母に会った。しかし、こぶのない片足を二度出して洗ってもらい、名も告げず旅籠をあとにした。後でその僧がわが子と知った母は希運を追いかけたが、目の悪かった母は誤って河に落ち溺死した。それを知った希運は船上から母を探し、「一子[[出家]]すれば九族天に生ず。もし天に生ぜずんば、諸仏の妄言なり」と唱え、[[炬火]]を<ruby>擲<rt>なげ</rt></ruby>て燃やす。両岸の人々は皆、その母が火炎の中で男子の身となって大[[光明]]に乗じて夜魔天宮に[[上生]]するのを見た。後になって官司(役人)が福清渡を改めて大義渡となした。この故事は『韻府群玉』(一三〇七)に記されているものであるが、同書が何に依ったのかは不詳である(巻一二・四一「黄檗母」、巻一三・四三「足心誌」)。『[[百通切紙]]』三には「黄檗[[禅師]]、母を[[引導]]してより禅家に[[引導]]す。禅家の[[引導]]を見て他宗も意を以て[[引導]]すと見えたり」と記すように[[禅宗]]の[[作法]]に他宗が<ruby>倣<rt>なら</rt></ruby>ったようである(五七 有他宗[[引導]]当流無之事)。<br />
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【参照項目】➡[[下钁]]、[[炬火]]、[[引導]]<span style="border: 1px solid;color: white;background-color: black;font-weight: bold;">二</span><br />
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【執筆者:大澤亮我】</div>
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