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公胤

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こういん/公胤

久安元年(一一四五)—建保四年(一二一六)閏六月二四日(一説に二〇日)。明王僧正。平安末期より鎌倉前期に活躍した僧侶園城寺おんじょうじ長吏四四・四七世、法勝寺別当。源憲俊の子。園城寺賢覚に入室し、伝法灌頂を公顕より受けた。朝廷・貴族の信任厚く、後白河法皇後鳥羽上皇の両院の仏事に加わった。また鎌倉幕府の公請をもたびたび受けている。専修念仏の機運高まる頃、法然の『選択集』を目にし、非難の声を『浄土決疑鈔』に著した(『醍醐本』に逸文がある)。しかし、法然と疑問を応答した後、心をひるがえして専修念仏の教えに帰依したという(『四十八巻伝』四〇)。その後、法然を追慕する仏事の七七日の導師を務めた。さらに法然は勢至の示現であったと夢告を残している。また和歌にも通じたことが『新古今和歌集』よりも知られる。晩年は禅林寺の辺にて余生を過ごした。


【資料】『大日本史料』四・一四「健保四閏六月二十日条」


【参考】高瀬承厳「三井寺公胤僧正に就て」(『仏書研究』四三、四四、一九一八)、舘隆志『園城寺公胤の研究』(春秋社、二〇一〇)


【参照項目】➡公胤夢告浄土決疑鈔


【執筆者:能島覚】