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向阿

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こうあ/向阿

文永二年(一二六五)—貞和元年(一三四五)六月二日。いみな証賢清浄華院の実質的開山。生没年については諸説あり、『三井続灯記』には文永三年(一二六六)の誕生、建武三年(一三三六)六月二日の示寂とある。永和四年(一三七八)成立の『法水分流記』には、「七十二才寂、六月二日午時」とあり、年齢は一致しないが、忌日は両者とも六月二日である。幼くして天台宗出家し、園城寺おんじょうじの僧となり、学問を修めた。しかしこの世をはかなむ心が強く、浄土の教えに傾倒していき、弘安一〇年(一二八七)、ついに園城寺を出て黒衣を着して、是心と号した。その後良忠弟子、礼阿然空に師事し、向阿と名乗る。乾元二年(一三〇三)、礼阿の弟子であった専空から三条坊門高倉の地にあった専修院を譲与された(『清浄華院文書』)。専修院には仏殿・僧坊・土蔵・本尊聖教があり、その後の向阿の活動拠点となった。そのため当初は三条流と呼ばれた(良心選択決疑鈔五見聞』)。暦応元年(一三三八)頃、この地に足利家の菩提寺等持寺が建立されたので、その頃までに浄華院と改称していた向阿の拠点は、土御門室町に移転させられた(『後愚昧記』永徳元年一二月二日条)。土御門通は平安京の一条大路にあたるため、以後、浄華院を拠点とする彼の流派を一条派と呼ぶ。向阿は延慶二年(一三〇九)に『往生至要訣』、正和五年(一三一六)に『浄土四要義』を著し、良忠・礼阿・向阿証賢)の系統こそが法然門下の正統であると主張している。このことは逆に、その主張を疑問視する見方が大きかったことを示している。また庶民にも分かりやすく浄土宗義を広めるために、元亨年間(一三二一—一三二四)、仮名で書かれた『三部仮名鈔』を著した。これは、『帰命本願鈔』『西要鈔』『父子相迎』の三部から成り、近江浄土宗教団の基礎を作った隆尭に大きな影響を与えたことでも知られる。彼の系統は公家万里までの小路こうじ家の帰依を受け、伏見天皇の孫である敬法が法を継ぎ、幕府政所執事の伊勢氏出身の住持が出るなど、公武ともに近く、中世京都における浄土宗の中心的勢力となっていった。


【資料】『向阿上人伝』


【参考】玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、佛教大学宗教文化ミュージアム『清浄華院の名宝』(二〇〇八)


【参照項目】➡一条派清浄華院三部仮名鈔


【執筆者:伊藤真昭】