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縁起

提供: 新纂浄土宗大辞典

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えんぎ/縁起

すべての物事は、って、すなわち、あい関連しあっておこる、すなわち、発生しているという意味。梵語では、「縁」Ⓢpratītyaは「相互に関連しあって」の意、「起」Ⓢsamutpādaは「発生・生起すること」の意。この縁起は、仏教初期の時代と、後世の発達した教義とでは、大きく意味・内容が変化している。まず、初期では『雑阿含経』一二に見られるように、十二縁起じゅうにえんぎ正蔵二・八四中、同八五上)を説く。その内容は、以下のようである。心に、①無明むみょう無知)というものがあって、②ぎょう(その心が動き)、③しき意識が活動し)、④名色みょうしき(心が見聞きするものに、名と形がともない)、それらを、⑤六入ろくにゅうげんぜつしんの感覚器官)によって、⑥そく(対象に触れ感じ取り)、⑦じゅ(感受し)、それぞれに⑧あい(Ⓢtṛṣṇā愛欲〔渇愛〕)が生じ、⑨しゅ(Ⓢupādānā〔執着〕)ができ、⑩(生存)があり、⑪しょう(Ⓢjāti)、人生が展開し、やがて⑫老死ろうし(Ⓢjarā-maraṇa)に至る、と迷いが順次に人生を展開していって、やがて老死に至ると説明する。これは発生の順観じゅんかんという。逆に、その故に、老死を超えるには、無明を滅すれば、行が滅し、識、名色、六入と逆に滅していって、ついには老死もなくなる、とする。この修行努力の過程を逆観ぎゃくかんという。こうした縁起観は、人の心と生命が、無の存在から次第に感覚器官の活動により生命となって人生が展開、やがては、老、死に至る人間の生存を説明し、同時に、そのような煩悩の動きに迷わされぬことを示している。

後代になると、迷いの世界の説明より、世界と心の問題として、思想的、哲学的に深く説明されるようになり、種々の縁起説が展開し、日本では民衆、社会に大きな影響を与え、縁起の心と一々自覚されてはいないが、現在に至っている。その中、華厳宗で説く法界縁起は、一宗にとどまらず、今日に至るまで、広く影響を与えている。法界縁起は、四種に示されている。①事法界(事物観)、②理法界(真理の立場で観る)、③理事無礙法界りじむげほうかい(真理も事物も事・理不二の真理と観る)、④事事無礙法界じじむげほうかい(諦観すれば事物、それぞれ、そのままで相即そうそく、相互に関連しあうと観る)という見方である。例えば、庭を造るのに、漠然と岩石を運び入れても、ただ、ものが個々に、すなわち、事と事とが置かれてあるだけである。しかし、一定の発想、例えば極楽浄土の思いをかけて、石組みをし、配置すれば、見る人自ずから、その思いを読み取るであろう。語らぬ石も、自由に、無礙に語ることができるのである。造園の一石一石といえど、作者の発想に対して、無限の解釈もあり得ることが、一即一切、一切即一と表現される。法界縁起も、このように、よく通観、達観するものに悟得される。また真言宗では、全世界、全身を、地・水・火・風・空・識の六大ろくだいから成り立つ、とする縁起説がある。ちなみに『華厳経』は、仏教が日本に伝来して早々に国家安定の経として受用され、そこに説かれる法界縁起という構想が、太陽のような仏である盧舎那仏るしゃなぶつ(Ⓢvairocana)が国の政治の中央である奈良にあって国全体に慈悲光明を放ち、守り育てるという考えに発展した。東大寺に盧舎那仏の大仏が安置され、法界縁起の教えが全国に広められ、国家統治の理念となった。今日、このことを注視する人は少ないが、注視するか否かにかかわらず法界縁起に基づく統治理念は日本の風土に定着しており、日本の政治、社会生活に対する影響を考慮する必要もあろう。


【参照項目】➡十二因縁


【執筆者:真野龍海】


日本では、寺社・仏像の造立の由来、利益功徳にまつわる伝説、またはそれらを記した書物のことを縁起という。宇宙万有・一切衆生が生成・推移する過程を把握しようとする縁起理解により、神社仏閣の創生・沿革に関する伝説と縁起の語とが結びつけられたためと考えられる。縁起は奈良・平安時代から鎌倉時代にかけて多く現れ、特に鎌倉時代には『信貴山しぎさん縁起』『北野天神縁起』をはじめとする様々な絵巻縁起が作成された。また、江戸時代以降は「縁起が良い(悪い)」や「縁起をかつぐ」など、吉凶の兆しを表す語としても用いられた。


【参考】桜井徳太郎「縁起の類型と展開」(桜井徳太郎他校注『日本思想大系二〇 寺社縁起』岩波書店、一九七五)、堤邦彦・徳田和夫編『寺社縁起の文化学』(森話社、二〇〇五)


【執筆者:冨樫進】