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清浄

提供: 新纂浄土宗大辞典

しょうじょう/清浄

清らかなこと。ⓈśuddhiやⓈviprasannaまた、ⓅsuddhiⓉdag pa等に対応する語。またⓈviśuddhiなどのようにvi-やpra-の接頭辞が付けられる場合もある。仏教における清浄とは、『俱舎論』に「暫く永く一切の悪行と煩悩の垢を遠離するが故に、名けて清浄となす」(正蔵二九・八四上)と説かれるように、悪行を離れ、煩悩の汚れがないことを意味する。このような清浄仏教の基本的な教理であり、その代表として「七仏通戒偈」が挙げられ、そこでは悪い行いから離れ、善い行いを修めて、自らの心を清めていくことが、仏の教えであると説かれている。また大乗経典においても清浄の語は数多く見出され、おおよそ釈尊在世の時代から、戒を守り清らかな行い(梵行)を修めることで、心身を清めていくことが仏教の基本的な教えであったといえよう。さらに信心のあり方を取っても、『俱舎論』において「信は心をして澄浄ならしむ」(正蔵二九・一九中)といわれるように、心を清らかにすることが信心のあり方とされる。これについては『無量寿経』第十八願における「至心信楽」も同様であり、梵語仏典では「清らかな心をおこして」と理解することができる。つまり自らの心を清めていくことは出家・在家にかかわらず重要なことであり、仏道の基本であるといえる。浄土教においてもこれは変わりなく、例えば『無量寿経』に「斎戒清浄なること、一日一夜すれば、無量寿国に在って、善をなすこと百歳するに勝れたり」(聖典一・二七七/浄全一・三二)と説かれ、この世での清浄な行いが勧められている。また『無量寿経』の意訳である『平等覚経』は、正式には『無量清浄平等覚経』といい、そこにおいては、阿弥陀仏無量清浄仏とよぶ。


【資料】『道行般若経』三、『瑜伽論』二二


【執筆者:石田一裕】