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随自意・随他意

提供: 新纂浄土宗大辞典

ずいじい・ずいたい/随自意・随他意

仏が教えを説くとき、仏自身の意に随うことを随自意、相手のことを考えて、その意に随うことを随他意という。『北本涅槃経』三五に「善男子、我が所説の十二部経の如き、或いは自意に随って説き、或いは他意に随って説き、或いは自他意に随って説く」(正蔵一二・五七三上、あるいは『南本涅槃経』三二、正蔵一二・八二〇中)と説くことによる。仏自身の意とはさとりの世界、真実の教えであり、相手の意に随うことは方便ということになるので、真実の教えと方便の教えを区別し、教説を分別する際の基準として用いられる。良忠が『決疑鈔』五において、「随自随他の言は涅槃経により出づ。謂く、三乗の法を随他意語と名づけ、一乗の法を随自意語と名づく。天台は彼の経に依りて、またその名を用う」(浄全七・三三〇上)と言うように、天台宗でよく用いられる。法然は『選択集』一二において、「随他の前には暫く定散の門を開くといえども、随自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開いて以後永く閉じざるはただこれ念仏の一門なり」(聖典三・一七五/昭法全三四三)と説き、定散二善を随他意の教え、念仏随自意の教えとしている。


【参照項目】➡随自意語・随他意語・随自他意語


【執筆者:曽和義宏】