操作

開宗の年次

提供: 新纂浄土宗大辞典

かいしゅうのねんじ/開宗の年次

法然浄土宗開宗した年次のこと。法然自身が浄土宗開宗もしくは立宗したと見なしていたのは、『一期物語』の「道綽善導の意に依って浄土宗を立つ」(昭法全四四〇)などの多くの文言からして確実であるが、法然自身は開宗の年次について明言していない。確かに伝統的には『四十八巻伝』六の「承安五年の春、生年しょうねん四十三。立ちどころに余行を捨てて、一向念仏に帰し給いにけり」(聖典六・五六/法伝全二四)などの文に準じて、四三歳のとき、善導観経疏』の「一心専念」の文によって回心し、「専修念仏」の教えを立てて浄土宗開宗したと見なしている。しかしながら、いずれの伝記とも四三歳(『古徳伝』などは四二歳)のときに「回心」をうかがわせる大転換があったことは述べるものの、それを明確に「開宗」と表現することはない。四三歳のときに「一心専念」の文で開宗したことを明言するのは江戸期になってからで、忍澂の『勅修吉水円光大師御伝略目録』(浄全一六・九九二上)や懐山えざん浄統略讃』(続浄一七・三七四上)が初出とされる。よって開宗年次については四三歳説以外も成り立ち得るわけで、学者により諸説が提示されている。大原問答法然五四歳)前後とする説や、兼実へ授戒(五八歳以降)していた時点では専修念仏者とはいえない故に『選択集』撰述期(六六歳)およびそれ以降とする説、『送山門起請文』(七二歳)等の制誡起請文献に見られる親天台的要素からして最晩年とする説、更には慈覚大師九条袈裟を着して臨終を迎えたという伝承などからして、法然は生涯自身を天台宗の僧と考えていたという説などである。ただ、開宗年次の問題は「開宗」をどう把えるかで大きく違ってくる。まず開宗を心的問題とした場合、回心開宗ということが考えられる。ところが、法然自身はどの経文によって開宗したのかと問われた際、「一心専念」の文ではなく、『観経』の「付属の文」に対する善導の釈文、すなわち「上来雖説」の一文をもって開宗したと述べている(『一期物語』昭法全四四六)ことからして、回心開宗は区別していた可能性がある。そうすると、開宗はある程度の教義的整備が整った頃、すなわち回心以後の少し経った時期ということになる。一方、専修念仏の教えと一致しないと考えられる行実が見られる間は未だ開宗していないとする立場に立つと、上記のような晩年開宗説、もしくは生涯未開宗説が唱えられることとなる。さらに教団の成立をもって開宗と見なす場合は、門弟が急増する五〇代後半以降開宗説、もしくは法然在世中には組織的な教団は成立していなかったので開宗法然滅後とする説などがありえる。なお、これら諸説に対し、現在の浄土宗にあっては、江戸期以来の伝統に則り、回心開宗の立場に立って、法然四三歳(一一七五年)開宗説を採る。


【参考】坪井俊映「承安五年浄土開宗説の形成」(佛大紀要三五、一九五八)、香月乗光「法然上人の浄土開宗の年時に関する諸説とその批判—承安五年開宗説の解明—」(『法然浄土教の思想と歴史』山喜房仏書林、一九七四)、福井康順「法然上人の捨聖帰浄について—回心と聖道門との関係—」(『塚本博士頌寿記念 仏教史学論集』塚本博士頌寿記念会、一九六一)、善裕昭「初期法然の宗観念」(『佛教大学総合研究所紀要』三、一九九六)


【参照項目】➡開宗立教開宗開宗の文捨聖帰浄内専修外天台


【執筆者:安達俊英】