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葬制

提供: 新纂浄土宗大辞典

そうせい/葬制

死者を巡って人々の起こす一連の行為・行動の総称。一九五〇年代にイラク北部の山麓地帯で、葬式の痕跡を留める世界最古の遺跡である、シャニダール遺跡が発見された。その遺跡は、旧石器時代から中石器時代にかけての、およそ今から五万年ほど前の洞窟遺跡で、遺体を葬った跡があり、また、おそらく辺りの野原の草を摘んで作った花束を一対供えた形跡が残されていたことが、現在の科学的手法によって明らかになっている。この事実からしても、人類はすでに五万年前から遺体を丁重に弔っていたことがわかる。死体は時間が経つと腐敗するため、何らかの形で処理をしなければならない。その方法を「葬法」と呼ぶが、歴史的には旧石器時代においてすら、すでに死体に対してなんらかの措置がなされた形跡がみられ、その意味では死体の処理は宗教の発生とともに古くから行われていた。『礼記』に「葬とは蔵なり。蔵は人の見るを得ざらんと欲するなり」とあるように、死体を隠して見えなくするという意味で、「葬」は漢字の上では、死体を上と下で草をもって覆うと書く。インドには水葬・火葬土葬・林葬(鳥葬)の四葬が行われていたことが『釈氏要覧』下に記述されている。古代日本では葬式のことを、たとえば『伊呂波字類抄』左人事には「葬送」、『秦山集』雑著甲乙一では「波不流」、『伊勢物語』上には「はふり」、『古事記伝』には「波夫里」と書かれている。「葬る」をハフル、ハウムルと読むのは、放棄を意味し、かつては死体遺棄の葬法であったことを物語っている。

死体の処理に続いて営まれるのは、死体から遊離するとみなされる霊魂との新たな関係の樹立で、鎮魂と呼ばれる儀礼である。死者に対し抱く感情は一般的に、時代・場所・民族を超えて錯綜している。死は肉体を崩壊させ腐敗させることから、死体への恐怖感・嫌悪感があり、他方ではとくに肉親の死に際し、遺族の悲しみ・嘆きとともに死者への愛惜の念が存在する。葬送の儀礼は、このような相矛盾した二つの共存する感情を調整する機能を有している。死は、死者と生者を切り離すので、葬儀の形式は基本的には死者と生者の分離が主要なモチーフとなる。死者や死者の霊に対する生者の態度は、民族のもつ世界観を反映しており、世界観の変化と共に葬送の儀礼もまた変化し変遷してきた。『魏志倭人伝』には「其の死には棺あるもかく無く、土を封じて家を作る。始め死するや停喪十余日、時に当って肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば挙家水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす」と記述されており、死者のよみがえりの場でもあり、鎮魂の場でもあった喪屋が作られた記録は記紀にさかのぼる。『古事記』によると、高御巣日神たかみむすびのかみの命をうけて天降った天若日子あめのわかひこが命に背き反矢かえしやで失くなったのを嘆き悲しんだ父の天津国玉神あまつくにたまのかみは、その国に降って喪屋を作っている。『日本書紀』では父の国王が「疾風を遺して、しかばねを挙げ、天に致さしめ、喪屋を造りてモガリしき」と伝えている。記紀の記述にある喪屋を作ってのモガリからは、これまで述べてきたように、死体への恐怖・嫌悪感と愛惜の念といった両面的感情の併存、生者の忌み、死者の死出の旅路への他界観などのさまざまな要因の絡みあいの上での習俗となって来たことがうかがえる。

わが国の葬法は、すでに縄文時代に行われていたことが考古学上立証されているように、土葬が基本型であった。繩文時代の埋葬は屈葬が多い。この理由として、これまで指摘されているのは、運搬の便と穴を掘る労力の節約、当時の睡眠・休息の姿勢、生まれかわるようにとらせた胎児の姿勢、死者・死霊の活動の拘束、の四つの理由である。この四つの理由のなかでもっとも有力なのは、第四の理由で、その背景として、すでに述べた死者・死霊への恐怖があるとみることができる。これを立証する考古学の例証としては、たとえば大分県豊後大野市朝地町大恩寺稲荷洞穴にみられる遺跡から足骨を抜きとった例、胸に石を抱かせた例、縄で死体を縛った例などがあり、また、極楽縄といわれる葬送習俗が残されていることによっても証明される。青森県上北郡辺地のへじ町では死体が棺のなかで動かないように、首枕といって藁袋わらぶくろを詰めたり、白布でった縄を首から膝へかけたりする習俗があったと報告されている。

葬儀は村の公の行事だったが、葬法としての死体処理と鎮魂からなる葬儀式が終わると、死体から遊離すると考えられる霊的存在に対する追善回向という一連の慰霊行動が起こされる。この一連の行動は二つの展開軸からなる。一つは、死霊から祖霊化へのプロセスとして位置づけられる、いわゆる年忌(年回)の法事で、他の一つは年ごとに精霊が生家を訪れる盆、彼岸という年中行事である。追善回向は葬儀後においては、位牌仏壇)、墓を対象として行われる。中国ではすでに葬式に続き七日毎の週忌、百箇日忌、一周忌、三回忌の十仏事が成立し、日本に入ってさらに七回忌・十三回忌・三十三回忌を加えて十三仏事が一二世紀から一四世紀にかけて成立し、一六世紀頃には十七回忌・二十五回忌を加えて十五仏事となった。十仏事は十王思想と結びついて中国で生まれたものである。十三仏事は、成仏するまで故人を見守る守護仏として諸仏が配当されたもので、日本独自の展開であり、密教系宗派では葬儀に十三仏の掛軸が掛けられるなど、その一つ一つは今日にみられるような年忌として拡大していった。


【参考】柳田国男「葬制の沿革について」(『人類学雑誌』五〇〇、一九二九、のち『柳田国男全集』一〇、筑摩書房、一九九〇に収載)、井之口章次『日本の葬制』(早川書房、一九六五)、大林太良『葬制の起源』(角川書店、一九七七)、土井卓治編『葬送墓制研究集成』全五巻(名著出版、一九七九)、久野昭『葬送の倫理』(紀伊国屋書店、一九七九)、藤井正雄『骨のフォークロア』(弘文堂、一九九八)、同『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』(同、一九九三)


【参照項目】➡葬送儀礼葬儀式


【執筆者:藤井正雄】