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神居琳応

提供: 新纂浄土宗大辞典

かみいりんのう/神居琳応

明治七年(一八七四)一一月一二日—昭和四四年(一九六九)九月一九日。通蓮社達誉善阿趣門。百万遍知恩寺七一世。管長制最後の浄土宗管長。現在の山形県米沢市舘山の士族、神居吉右衛門義信とキリの二男に生まれ、幼名を彦次郎。一〇歳の秋に現在の福島県伊達郡川俣町東円寺に入山。明治二三年(一八九〇)一月二五日住職井上真応に就いて得度、二年後琳応と改名。同二八年七月に浄土宗学仙台東北(第二)支校卒業。同二九年七月一二日大本山増上寺法主野上運海より宗戒両脈相承。その後、浄土宗学本校高等正科を経て、同三五年七月浄土宗学本校専門部唯識科卒業。同年七月より四〇年まで京都第五教校の教授として教鞭をとり宗侶養成の第一線に立つ。同時期、京都支校長を務めた大門了康に請われ付弟として平等院に入山。大正三年(一九一四)一一月一四日、平等院住職法灯ぎ、同年浄土院三七世を継承。明治以来の荒廃に平等院内局浄土院の人事刷新を計り一山安定への施策を施す。並行し同九年に総本山布教師会会長。宗議会議員、京都布教団長、第五管区布教監督。同一五年、管長代理としてハワイ諸島への伝道活動、昭和一一年(一九三六)一二月京都教区の特別時伝道を行う。同一四年、百万遍知恩寺桑田寛随遷化ののち、九月知恩寺七一世法主晋董。同二七年五月三〇日、浄土宗管長に就任。戦時中の非戦講演をはじめ戒師としても活躍。戦後国内で最も早い時期の古文化財大修理として平等院鳳凰堂昭和大修理を完遂。その後の平等院護持を、それまでの浄台輪番制を廃し両住職制を敷いた。合併時の岸覚勇への相承に際しての知恩院大殿と集会堂を結ぶ廊下での問訊は有名。著書に『選択集達意』(宗粋社、一九〇九)、『大原問答講話』(同、一九〇九)、『仏教要領』(同、一九〇九)、『我家の信念』(平等院浄閣、一九一六)、『通俗授戒講話』(近江屋書房、一九二六)、『善導大師』(一音社、一九二六)等多数。


【執筆者:神居文彰】