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提供: 新纂浄土宗大辞典

みず/水

生物の生存・維持になくてはならない要素。水の宗教性に着目した場合、水はものを浄化し、また生成するという二つの機能を持つと考えられる。水はあらゆる罪や汚れを清め、火はなにものをも焼き尽くすことから、水と火が払浄儀礼に用いられる例が世界各地に散見される。

[水の浄化性]

神仏の祈願において、禊場みそぎばで冷水や海水を浴び、垢離みずごりを行う。葬儀式のときに用いる「清め塩」は水垢離を簡略化したもの。また、産湯うぶゆ現世の生活を、湯灌ゆかん来世の生活を送るためのもので、水を用いた浄化の儀式と考えることができる。臨終のときの末期まつごの水は、死者に生命力を与える習俗として各地で行われている。仏教灌頂は、これから仏弟子になる人の頭頂に浄水を灌ぐことをいい、仏弟子として再生することを意味し、ユダヤ教キリスト教の洗礼にあたる。仏教では頭頂に水を灌ぐだけであるが、キリスト教では幼児洗礼を除き、浸礼といって全身を水に浸し入信の典礼とする。

[生命の根源としての水]

水には生命力があり、ものを生みだす力があるとされる。日本では古代から水稲栽培を生活の糧としてきたことから水に深い関心を示し、豊饒をもたらす神として水を崇拝した。田植えに臨んでは、水口みなくち祭りを行い、水源とみなされた山は、ミクマリの神と山の神とが習合して田の神とみなされた。正月の若水の行事、東大寺二月堂のお水取りの行事などは相互に関連しており、水は閼伽あかとして仏・菩薩供養のために供えられた。「浄土三部経」の一つ『観経』には宝池観があり、極楽浄土の池の水の清らかさと水のもつ深い仏教的な意味が説かれている。


【参考】柳田国男『日本の祭』(弘文堂、一九四二)、折口信夫「水の女」(『折口信夫全集』二、中央公論社、一九六五)、ミルチャ・エリアーデ著/堀一郎訳『大地・農耕・女性』(未来社、一九六八)


【参照項目】➡オキヨメ湯灌灌頂閼伽末期の水


【執筆者:藤井正雄】