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徹選択本願念仏集

提供: 新纂浄土宗大辞典

てつせんちゃくほんがんねんぶつしゅう/徹選択本願念仏集

二巻。『徹選択集』『徹選択』ともいう。聖光撰。法然選択集』の注釈書。同書の真意を徹底せんがために著したもの。聖光七六歳、入寂前年の撰述とされる。三祖良忠の『徹選択鈔』上によれば、『徹選択集』上下二巻は、下巻が撰述された後に、上巻が加えられたように記されている。しかし『徹選択集』上下二巻の奥書の日付は、上巻が「嘉禎三年六月十九日」とあり、下巻が「嘉禎三年六月二十五日」とあるから、日付の記事からいえば、まず上巻が撰述され、後に下巻が撰述されたといえる。ところが良忠の『徹選択鈔』上のはじめに、「問う、得名いかん。答う、この集を作りたまいしことは、先師(聖光)『智度論』に菩薩修行の相を明すを、今の浄土門に望るとき、通局の念仏あるべき道理を見立てて撰せられるなり。題名に至りては、案じ労いたまいしなり。或は四義集とやいわまし或は徹選択とやいわまし。ただし予は故上人遺弟選択伝授の身なり。徹選択の題宜しかるべきかと。彼の集、念仏の義を宣べ徹する意なりと。然ども選択の意を一分ものべられず然る問題と文と相違せり。私に申していわく、本集の大意を釈しそえられて候はば、題に違せざるよろしかるべきに候いなん。これによって上巻に一六篇の意を述べられたるなり」(浄全七・一一二上)とあることによっても明らかなように、聖光の『徹選択集』は下巻に撰述の目的があったとみられる。『徹選択集』の上巻はまさに『選択集』一六章の註釈であるが、下巻はそうではない。また良忠は『徹選択集』を「四義集」(実際は七義)というべきことを聖光に進言している。聖光は下巻の終わりに「まさに今、広く経論をかんがうるに、一切衆生念仏往生するに種種の故あり」(聖典三・三一七)といい、「一つには菩薩の願故に。二には菩薩方便ぎょうほうべんの故に。三には菩薩浄仏国土成就衆生の故に。四には仏智の故に。五には法不思議の故に。六には摩訶衍まかえんの法の故に。七には譬喩の故なり」(同三一七~八)といっている。良忠が「四義集」といったのは、前半の四義のことで、後半の三義は下巻撰述のときに加えられたと考えられる。『徹選択集』上は、『選択集』の篇目にそって註釈がほどこされているが、よくみると全篇にわたって等分に註釈がほどこされているわけではない。比較的多く註釈されているのは第一章(聖道浄土二門篇)、第三章(念仏本願篇)、第一二章(付属仏名篇)、第一六章(弥陀名号付属篇)の四篇である。

良忠は『徹選択鈔』上において、「問う、徹の字の意いかん。答う、『選択集』の念仏は正しく本願称名の一行に局り、『智度論』の念仏は広く三福六度の行に通ず。しかるに本集の念仏は未だ通の念仏の相を釈せず。故に別より通に徹するなり。故に『徹選択集』という」(浄全七・一一二上)と述べ、『徹選択集』という題を釈している。 『徹選択集』はまず「選択本願念仏集南無阿弥陀仏往生之業念仏為先」という題号と巻頭の一四文字のもとに、三つの念仏(三義)があるとする。すなわち、第一諸師所立の口称念仏、第二善導所立の本願念仏、第三然師所立の選択念仏のことで、念仏の教えが確立されていく過程を三つに分けて解釈している。こうした『選択集』題下の三義の内容をうけて、聖光は「問う、上人法然)の選択とはこれ何なる義ぞや。答う、善導和尚の意、念仏とは本願往生念仏なり。弥陀四十八願の中には、第十八願これなり。この本願の義の上に、また法然上人浄土三部の諸本をくらべ同本異訳の諸文を挍べて、今、法蔵菩薩選択の義を勘出したまうなり」(聖典三・二六五)という。そして聖光自らの考えを展開させる。それは選択本願念仏の義を、法然龍樹法蔵菩薩↔先仏と順逆それぞれの論理的展開を示すことで明らかにしている。また聖光は、選択の義(思想)を『選択集』第一六章(弥陀名号付属篇)を註釈するところで二二種の選択として展開させている。それは『選択集』に説かれる八種選択をもとに、二二種の選択を展開したものである。これは聖光のいうところの聖浄兼学の立場に立って、通仏教思想の理念でもって、選択本願念仏の真実性を強調し、念仏の教えの普遍性を表明したものといえる。「先師上人の『選択集』を以て指南とし、また依憑えひょうに仰ぎ無間に精進して、懈怠無く疎略無く口称念仏を行じてたしかに以て極楽往生すべし。これすなわち、末法の迷者を哀れむなり」(聖典三・二八八)といって、『徹選択集』上は終わっている。 『徹選択集』下は、まず念仏三昧の義(思想)について論及する。「問うて曰く、念仏三昧とは何の義ぞや。答えて曰く、念仏三昧とはこれ不離仏の義なり。問うて曰く、不離仏とは何の義ぞや。答えて曰く、不離仏とは値遇仏の義なり。問うて曰く、値遇仏とは何の義ぞや。答えて曰く、値遇仏とは因地下位の菩薩は、必ず果地上位の如来に値遇して刹那片時も仏を遠離すべからざること、譬えば嬰児の母を離れざるがごとし」(聖典三・二九一)と、龍樹の『智度論』における菩薩思想にもとづいて論じている。さらに聖光は「今、かくのごとき等の問答は偏に、これ菩薩浄仏国土成就衆生の義なり。いまだ念仏の義を顕さざるは、如何。答えて曰く、今、この造書の意趣浄仏国土成就衆生の義を問答することは念仏三昧の至極甚深の義を顕さんが為なり。所以は何となれば、菩薩、仏に遇わずんば浄仏国土の行を知らず。菩薩、常に仏に値うが故に能く浄仏国土の行を知る。仏を離れざるが故に仏を忘れざるなり。仏に値遇するが故に常に仏を念ずるなり。この故に菩薩の浄仏国土の行を以て甚深の念仏三昧と名づけるなり」(聖典三・三〇一)といっている。そして聖光は、不離仏(不忘仏)・値遇仏(常念仏)の二義をもって念仏三昧を定義づけるが、さらに念仏に総別二種のあることを明かす。これを開図すると、

  ┌総・広—普遍論—開

念仏┤ →万法=理→真如一

  └別・略—特殊論—合

    →一法=事→般若仏智 となる。

最後に『徹選択集』の結論ともいうべき内容が、下巻の終わりに上述した七義によって示されている。このように、念仏三昧不離仏・値遇仏と定義して、浄仏国土成就衆生の通仏教的理念でもって、念仏の教えの普遍性とその深勝性を求めたのが『徹選択集』下の内容といえよう。


【所収】聖典三、浄全七


【参考】髙橋弘次「徹選択本願念仏集」解題、「徹選択集の思想」「聖浄兼学の精神」(『続法然浄土教の諸問題』山喜房仏書林、二〇〇五)


【参照項目】➡二十二選択八種選択


【執筆者:髙橋弘次】