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土屋観道

提供: 新纂浄土宗大辞典

つちやかんどう/土屋観道

明治二〇年(一八八七)七月一二日—昭和四四年(一九六九)二月一九日。大信光院法蓮社性誉念阿自然。佐賀県三養基郡北茂安村千栗ちりく(現・みやき町)生まれ。明治四三年(一九一〇)、早稲田大学理工学部電気工学科に入学する。求道の志あつく、椎尾弁匡出家入門を請う。同四五年、早大を中退、宗教大学予科編入。椎尾弁匡の推挽により中嶌観琇弟子になり、観道と改名。師と共に増上寺山内鑑蓮社に寄寓。翌年神谷秀瑞と宗務の援助を受け、朝鮮満州に伝道旅行。大正四年(一九一五)正月、光明主義の主唱者、山崎弁栄を訪ね、深い感化を受ける。同五年五月、笹本戒浄浅井法順と信州唐沢山阿弥陀寺に一週間の専修別時念仏会を厳修。阿弥陀寺での別時念仏会は生涯継続、滅後も遺弟によって今日に及ぶ。同一〇年、増上寺山内学寮の多聞院住職晋山。日魯漁業社長堤清六の寄進により、神田駿河台に説教所光明会館」を開設、「如来中心主義」の看板を掲げ、後に「真生主義」を提唱し、独自の活動を始めた。自らの宗教思想の体系化をはかり、それを図式化した「大宝曼荼羅」を完成、真生主義の運動理念とした。その信仰に共鳴する信者を「真生同盟」として組織し、全国に支部を結成、機関誌『真生』を創刊、昭和一六年(一九四一)増上寺山内観智院住職真生同盟本部道場を設立する。自ら主幹となり、全国の共鳴寺院および信者宅を定期に巡回伝道、自坊は月例念仏会を除いて数日という不惜身命の日々を送った。世寿八二歳。


【参照項目】➡真生同盟


【執筆者:土屋光道】