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厭世観

提供: 新纂浄土宗大辞典

えんせいかん/厭世観

現におのれの生きる世界に対して、穢れ、不実に満ちているとして厭い離れようとする考え方や生き方。pessimismと同義。仏教では、我々の生死輪廻する世界を迷いの世界であり一切皆苦であるとし、その世界からの解脱を目指しており、その点で、厭世的世界観を基調となすものといえる。浄土教においては、極めて明確に厭世観の強調をみることができる。源信の『往生要集』では大文第一に「厭離穢土」を置くことによって、次の大文第二「欣求浄土」を効果的に強調している。法然浄土教においては、厭世観について二つの要素を見出すことができる。一つはその教義教学の背景となる末法思想である。これは『選択集』一に『安楽集』を引き「大聖だいしょうを去ること遥遠ようおんなる」や「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり」(聖典三・九八/昭法全三二)と表現される。二つには『選択集』八に『観経疏』を引き、三心のうち深心におけるいわゆる信機に示される、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫こうごうよりこのかた、常に没し常に流転して出離の縁あることなしと信ず」(聖典三・一四〇/昭法全三二九)という態度に表されている。前者は外的な要素、後者は内的な要素として指摘できる。こうした二つの要素は、「まさに知るべし、浄土の教、時機を叩いて行運に当れり」(『選択集』一六、聖典三・一九〇/昭法全三五〇)と浄土教の必然性を支えるものとなるのである。このように法然浄土教においては厭世的世界観がその根底に横たわっているといえるが、浄土信仰を確立した後は、この現世は単に厭うのみの消極的価値の世界ではなく、「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん様に過ぐべし」(『諸人伝説の詞』聖典四・四八七/昭法全四六二)といわれるように、浄土往生するための積極的価値を持ったものとして捉えられるようになる。ただし、その積極的価値も、どこまでも厭離穢土という厭世観を出発点とする念仏生活において実現されるということに留意しなければならない。


【参照項目】➡厭離穢土欣求浄土


【執筆者:藤本淨彦】