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内専修外天台

提供: 新纂浄土宗大辞典

ないせんじゅげてんだい/内専修外天台

法然は内面的には専修念仏者であるが、外面的には天台僧であったという説。法然には専修念仏者としての側面と旧仏教的要素(九条兼実への授戒など)とが混在しているという事実を、どう理解すればよいかという問題意識に基づいて提唱されたもの。「うちせんじゅそとてんだい」とも読む。天台宗僧侶で早稲田大学教授であった福井康順が、昭和三一年(一九五六)開催の日本印度学仏教学会において提起した。法然七二歳のときの『送山門起請文』における親天台的な言辞や、臨終時に慈覚大師九条袈裟を着していたという伝記の記事などに基づき、法然は早くに「帰浄(浄土門に帰すこと)」したが、晩年にいたるまで「捨聖しゃしょう聖道門を捨てること)」はしなかったと主張し、この説によれば開宗も最晩年ということになる。その後、いくつかの論考を重ねる中、これらの主張がより押し進められ、「行専修教天台」「行浄土教聖道」というように、外面だけでなく、教えに関しても聖道門である天台宗の枠内にあったと主張するにいたる。すなわち、法然念仏という「行」の「専修」を勧めたが、それは天台の教えの中においてであったというわけである。よって、聖道門を否定しているように見える『選択集』も、冒頭で「念仏と為す」、またいわゆる「略選択」でも「しばら聖道門をさしおき」などと述べられていることからして、聖道門は否定されておらず、『選択集』は「教」よりも「行」を説く書物と主張する。この「内専修外天台」の説に対しては浄土宗の諸学者からいくつかの批判論文が著されたが、その主な論拠は以下の通り。①法然にあっては「帰浄」すれば必然的に「捨聖」となるので、「帰浄」したが「捨聖」していないなどということはありえない、②そもそも制誡書は特殊な文献であって、『送山門起請文』等における親天台的な言辞も擬態とみなせる、③『選択集』における「選択」概念は天台浄土教との相違を端的に示すものである、等々。ただし、福井の投げかけた問題提起は、反論・再考などを通して、結果的にその後の浄土教学研究に活性化をもたらした。例えば、『選択集』の「且く」の解釈に言及する諸論文も、その一例といえよう。


【参考】福井康順「法然伝についての二三の問題」(印仏研究五—二、一九五七)、同「法然上人の捨聖帰浄について—回心と聖道門との関係—」(『塚本博士頌寿記念 仏教史学論集』、一九六一)、同「選択集新考」(印仏研究一〇—二、一九六二)、香月乗光「法然上人の浄土宗開宗年時に関する諸説とその批判—承安五年開宗説の解明—」(『仏教文化研究』六・七、一九五八)、伊藤真徹「法然上人の回心と聖道門との関係について」(『仏教論叢』九、一九六二)、安達俊英「〈内専修外天台〉と〈捨聖帰浄〉」(『仏教文化研究』三七、一九九二)


【参照項目】➡開宗の年次捨聖帰浄


【執筆者:安達俊英】