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二乗種不生

提供: 新纂浄土宗大辞典

にじょうしゅふしょう/二乗種不生

阿弥陀仏西方浄土には、声聞縁覚二乗は生じないということ。世親往生論』の国土荘厳・第一六大義門功徳成就の偈に「大乗善根の界は等しく譏嫌きげんの名も無く、女人及び根欠と二乗との種生ぜず」(聖典一・三五七/浄全一・一九二)とあることによる。一方、『無量寿経』には「諸もろの声聞菩薩・天・人、智慧高明に神通洞達し、みな同じく一類にして、かたち異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり」(聖典一・二四四/浄全一・一七)と説かれるほか、四十八願中に第十四声聞無数願があり、また『観経』には小乗の行者である中品三生の往生を説き、『阿弥陀経』には「かの仏に無量無辺の声聞弟子あり」(聖典一・三一八/浄全一・五三)と西方浄土声聞が存在することなどが示されており、いわゆる浄土宗の所依である三経一論のなかに大きな矛盾があることになる。この解釈について中国浄土教では、長期間にわたって多くの議論がなされた。曇鸞は『往生論註』に「声聞と言うが如きは、是れ他方の声聞の来生せるを、本名にるが故に称して声聞となす…安楽国には二乗種子を生ぜず、亦た何ぞ二乗の来生を妨げんや」(浄全一・二二八下~九上/正蔵四〇・八三一上)と述べ、『往生論』に説かれる「二乗種」の「種」を「種子」と理解し、さらに「不生」を「往生できない」ではなく「来生を妨げない」、つまり極楽浄土には二乗の種は生えないという意味でとっている。一方、浄影寺慧遠観経義疏』では、「不生」を「往生できない」と理解して、先に小乗を学んだ行者は、臨終時に菩提心を発して大乗の種をえるからこそ往生できるとし、極楽浄土においてまず小乗の証果を得て、後に大乗へ帰入する(=廻心向大)との解釈を示した(浄全五・一九五上~下/正蔵三七・一八四中)。善導は『観経疏』玄義分に「問うて曰く、種と心と何の差別か有る。答えて曰く、ただしおもんみれば便なるを取って言う、義は差別なし」(聖典二・一八六/浄全二・一二上~下)と述べ、「種」と「心」は同義であり、往生して大乗の無上道心を発すことを「大乗種生」または「大乗心生」と名づけ、極楽浄土において華が開いた後には、観音菩薩が小乗の教えを説くことがなく、二乗を求める心が生じないから二乗種不生なのだという。また、慧遠と同様に小乗の機根往生可能であり、極楽浄土において小乗から大乗へと転向することも含めて二乗種不生であると述べている。善導二乗種不生説は、是報非化を争点とする一連の問答の中で説かれており、仏身仏土論を背景とする議論であったことも注意を要する。懐感群疑論』では五姓各別説を背景として二乗種不生が説かれ、①縁覚人天二乗とする説、②声聞縁覚二乗とする説、③愚法・不愚法の声聞、④廻心向大についてそれぞれ詳説し、大乗善根界極楽浄土には人天も含めた二乗往生できることを主張している。元暁は『両巻無量寿経宗要』に、決定性の二乗往生できないが、不定根性の者は往生することができるという(浄全五・七七下~八上/正蔵三七・一二六中)。この問題は他にも、迦才、基、道誾どうぎん龍興義寂法位など多くの諸師が取り上げている。


【参考】金子寛哉『「釈浄土群疑論」の研究』(大正大学出版会、二〇〇七)、柴田泰山『善導教学の研究』(山喜房仏書林、二〇〇六)


【参照項目】➡女人根欠不生


【執筆者:工藤量導】