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一向派

提供: 新纂浄土宗大辞典

いっこうは/一向派

時宗十二派の一つ。浄土宗三祖然阿良忠の門下、一向俊聖しゅんじょうを祖とするが、時衆と呼称したことから近世時宗十二派に数えられる。時代により番場ばんば時衆時宗番場派、時宗一向派等とも呼称される。滋賀県米原市番場蓮華寺本山とした。蓮華寺は三代同阿良向以後、代々同阿を継承している。一向派の呼称は、元禄一〇年(一六九七)成立の時宗触頭ふれがしら浅草日輪寺吞了どんりょう著『時宗要略譜』が初見であろう。一向門下について、『一向上人血脈譜』によると十五戒弟と称される弟子があり、東北、関東、甲信越を中心にそれぞれ教線を延ばし、一向派の基盤を築いていった。その勢力の分布に関して、近世成立の『八葉山蓮花寺末寺帳』(蓮華寺蔵)には、近江(二六)、常陸(三六)、下野(一八)、出羽(四八)、越後(八)、陸奥(五)、武蔵(三)、上野(四)、下総(二)、相模(五)、駿河(三)、三河(六)、信濃(一)、摂津(一)、尾張(三)、美濃(四)、能登(一)の合計一七四箇寺を収録し、全盛期の勢力を窺うことができる。しかし江戸幕府の宗教政策により時宗遊行派の傘下に強制的に編入されたことで次第にその規模を縮小、貞享元年(一六八四)には栃木県宇都宮市一向寺(現・時宗)および茨城県小栗一向寺(現・浄土宗)が、天保三年(一八三二)には山形県天童仏向寺(現・浄土宗)が、それぞれ番場蓮華寺との間に本末論争を繰り返すなどの混乱が続いた。明治期に入って独立運動が盛んになり、幾度かの論議を経ながら、明治三六年(一九〇三)には時宗内で一向派の立場を認める『時宗宗憲宗規』が制定され、一応の解決をみた。しかし昭和一六年(一九四一)施行の一宗一管長制により、同一七年には一向派九八箇寺中五七箇寺が時宗より浄土宗に転宗、残る四一箇寺は時宗にとどまった。


【参考】大橋俊雄『番場時衆のあゆみ』(浄土宗史研究会、一九六三)


【参照項目】➡蓮華寺仏向寺一向俊聖


【執筆者:長澤昌幸】